重松清氏インタビュー
2005/04/02更新
インタビュアー=水上賢治
Q.『カナリア』を観る前に、重松さんなりにストーリーを想像されていたと思いますが、どういったイメージを抱いていらっしゃいましたか。
A.1995年、オウム真理教のサティアンからヘッドギアを付けた子供達が抱えられて保護されたニュース映像っていうのは、あの時代大人だった人は、当然みんな鮮烈に記憶に残っていると思うのね。僕にも、それは残っている。だから、僕は物書きなりに、それからいろんな人はそれぞれの立場で、あのインパクトのある映像からいろんな事を思っているはずだし、いろんな解釈をしてる。だから、そこから自分だけの物語を作っていくっていうのは --- これは映画に限らず小説でも何でもそうだけども --- 大変なことだと思うんだよ。みんなが知らなかった話を書いた方が、「どうだ!」で済むじゃない?
そこをあえて、見る人それぞれの胸に傷を刻み込んだような衝撃的な映像から出発して塩田さんは『カナリア』を作った、と聞いたわけだよ。年齢は塩田さんの方が二つか三つ上なんですけど、塩田さんと僕は同世代といっていいと思う。それに、塩田さんが『どこまでもいこう』(99)を作った同じ時期に、僕は「エイジ」や「ナイフ」って小説を書いたりして、なんかね、同じ時期に、同じように少年を描こうとしてる同世代の映画人がいるっていうので、すごく意識をしたわけです。
Q.塩田監督の作ったものとやっぱり重松さんの書かれてるものはなんとなく共通項を感じていらした、と?
A.恐らくね、共通項とまでいったらおこがましいけれども、決して遠くはないと思っていて。『どこまでもいこう』って普通の小学生の話だったわけじゃない? 普通の小学校五年生の。僕も普通の少年が好きなのね、小説の題材として。でもどこかで、オウムの子供たちのような、そういう存在にもいつかはぶつかんなきゃいけないだろうっていうのが僕の中にもある。僕はそれをまだやってないし、できないかもしれないと自分で思っている。そんな中で塩田さんが、その素材に挑んだっていうのでね、本当に勝負作というか、勝負球放ってきたなっていう気がした。多分今の時代に"少年もの"、子供たちを描こうとするとき、あのオウムの子供たちの映像っていうものは避けては通れないと思うんだよ、絶対にね。避けては通れない存在っていくつかあって、それこそ酒鬼薔薇もそうかもしれないし、いじめで死んじゃった鹿川君もそうかもしれない。その中でも強烈な苦い思いを大人に与えた子供たちに塩田さんが挑んだんだなって思うとね、さあ、どんな物語を作っていくんだろうか?っていうのが一番最初に思ったこと。その挑戦はすごいなって思ったし、やるなぁって思ったけど、率直に言えば不安はあった。
下手なもの作ってたら、やだなっていうようなところがあったのね。現実のオウム真理教の反社会的な事件とか、そういうものにあまりくっつきすぎちゃうと結局、ワイドショー的な「あの子供たちのその後」みたいな感じで終わってしまうだろうから。
Q.期待と不安で、自ずとなんとなく厳しい目でご覧になったんですね。
A.ひがみ半分というか、そういうものを持って作品に向き合ったのは僕が一番だと思う。その面では一番厳しいというか、意地悪だったかもしれないよね。
Q.その意地悪な目で観られて......
A.負けたってことだよね、僕が。
Q.それは、どういう点だったのでしょうか。
A.『カナリア』が始まってさ、二、三分で、もう現実のオウム真理教っていう固有名詞ってのは消えちゃったから。宗教がどうの、ということですらなくなっちゃってさ、「信じるものってなんなんだろう」っていうとこまで持っていかれたから。作品は2時間くらいあったと思うけど、一度もね、いわゆる現実のオウム、麻原彰晃の顔とかさ、上祐の顔とかさ浮かばなかったんだよね。あ、一瞬、元信者役の人、西島さん? と上祐がだぶったり、ナンバー2だった女性信者、石井のことを思い出したりはしたけど。
それだけスクリーンの中の一つの現実として成立してたんだと思うんだ。僕たちが知っているオウム真理教の情報というか知識ね、それに頼らなくてもスクリーンの中だけできっちりと現実が出来上がっていたんじゃないかなと思って。圧倒的に映画そのものに入っていっちゃった。それはすごいことなんじゃないでしょうか。ヘッドギアみたいなイコンとしてのさ分かりやすさを出していながらね、うん。
Q.この映画の主人公の少年と少女は重松さんの中でどういう存在だと思われました?
A.僕は走る少年が好きなんだ。少年は走んなきゃいけない。少年ってのはつい走っちゃうでしょ。廊下なんか、走るなっていわれても走りたがるわけじゃない。海に行ったら走る、用もないのに。でも、それが少年だと思うのよ。なにかさ、走らずにはいられない存在っていうか、だからしょっぱなから塩田監督が走る少年の姿を延々映してくれて、もうそこにはオウムの背景とかってのはずっと奧にとんでっちゃってる。オウムの、とか、宗教の、っていう形容詞を付けて表現する少年じゃなくて、生の少年っていうか、少年性が剥き出しになってて、それが良かったな。そういう走る少年を描いてくれて僕は好きだったし、嬉しかった。で、走る少年はやっぱり女の子に出会わなければいけない。
『どこまでもいこう』の中でね、"男子ってバカだよね"という大好きなセリフがあるけど、そこなんだよ。男子の方がね、ガキなの。ということは女の子は大人でなきゃいけないわけだよ。で、現実問題として女の子の方が先に大人になるわけですよ、いろんな面で。
『カナリア』の由希も、ある面で大人の世界を裏まで知っちゃってる。裏まで知ってニヒリズムを持ってる。ニヒリズムを持ってるってことはさ、信じるものを持ってない子なんだよね。あるいは大人というものを信じない子供っていってもいいんだけど、大人を信じてない少女=由希と、信じるものを奪われた少年=光一との出会いなわけでさ。だから明らかにね、由希の方は大人なんですよ。裏返していけばさ、信じるものを持たなくなるってことが成長なのかもしれないんだよね、子供にとってね。ネガティブな成長かもしれないんだけども、そういうものだと思うのよ。それこそ小学校二年生まではサンタクロースを信じていたけれども、三年生になったら信じなくなったと。そこでそれは成長なわけだよ。
『カナリア』では、信じるものを奪われた少年と、信じるものをもたない少女が出会う。でも、少女は冷めたまんま少年をリードする存在では終わらなかったよね。一回りして、彼女はまた信じることを選んでくれた。それがすごく、かっこよかったんだよね。無邪気にいろんなものを信じているだけでは、やっぱりリアルじゃないと思うのね。現実の中に生きてる子供たちって、どんどんどんどん信じるものを失っていく。それは宿命的で、しょうがないことだと思うんだ。一回信じることをやめる、絶望していると言ってもいいんだけど、そこのリアリティーはしっかりと確保して、しかしニヒリズムで終わらない、と。その上でもう一回新しい何かを信じさせようとするところがさ、僕はいいなぁと思った。
一度も裏切られない信頼とか、信じるってことが一度も傷つかないまんまだったら、それは、悪い意味でのファンタジーだと思うんだよ。塩田監督はちゃんと分かってて、だからしっかりと現実の苦みっていうのを描いて、それでも最後に、さらに先にある「信じる」を出してる。「あー、最高じゃん」って思った。
Q.ふたりが出会っていく登場人物で気になった人物っていますか?
A.さっきの話に戻るんだけども、最初はどうしてもオウム真理教なり現実っていうものが頭の片隅にひっかかってたとしたら、それがスポンと抜けてくれたのがね、つぐみとりょうのカップルとふたりが出会ったあたりから。僕たちがニュースや、ワイドショーで見てきたのとは違うもう一つの物語がここにはあるんだっていう、はっきりとそこで映画としてテイクオフできた気がする。忘れられないね、あのふたり。
Q.どういった部分が?
A.なんていうのかな、高原で深い霧があって......情報量が少ないわけですよ、圧倒的にね。絵としてもそうだし物語的にも情報量がすごく少ない。逆にいえば、『カナリア』は事前の情報量が多い映画じゃない? オウムのことも含めて。それがすごく足枷になって僕なんかは意地悪な目で観ようとしちゃったんだけども、そういった余計な先入観を取り外すために思いっきり抽象的であり幻想的である、あの霧ってのは大事だったんじゃないのかなって気がする。
それにしても、りょうさんのビンタ、痛そうだったしなぁ。
Q.かなりえぐい感じの凄いやり取りでしたよね。
A.でもね、あそこで、「愛憎」って表現になるのかな、愛しながら憎しみ、憎しみながら愛するっていう、その関係を少年たちが見るってのはやっぱり大きいと思うんだよね。だから、あそこから僕たちがニュースやワイドショーでは見てこなかった新しいファクトが入ってきたわけでね。ただ、むつかしいんですよ。小説なんか書いてるとね、ああいうシーンは書けないんだよね、なかなか。ストーリーに関係ないなって思っちゃう。カットだなぁとか。でも必要なんだよね、あれは。
Q.そうですね。確かにあそこで主人公のふたりに微妙な変化がありますよね。
A.うん、観てる方にもその変化は訪れたはずなんだ。多分そのあたりで完全にオウム忘れると思うよ、観てる人。
Q.光一のお母さんの存在はどう思われましたか?
A.あの遠さがリアルなんだろうなっていう感じはした。自分もものをつくる人間だから、これが逆だったらどうなってるかなって、いつも考えるのよ。たとえば教祖の奥さんの娘が脱走して、少年と出会っていたらどうだったのか、とか。娘とお母さんの関係になるわけでしょ。そしたら多分あれでは済まないと思うんだよね。でも息子とお母さんの関係は、やっぱり永遠のファンタジックなものってあるじゃない。そんなふうに考えながら観てたから、「あぁ息子とお母さんってやっぱりそうだよね」と。永遠のマドンナというか、永遠のマリア様だよね。これはフロイト的に言ってもファンタジーなわけで、でもそこに少女っていう「リアル」が介入してくるわけじゃない。由希はいろんな現実のリアルを知ってる。虐待とかさ、援助交際も全部含めて。だからすごくよく出来た構造だと思った。物語として。
Q.小説家の目から観てもよく出来ている構造だと‐
A.いや、小説家の目からっていうか、読者じゃなくて、観客? うん、観客の目から観てね、すごいなぁと思った。すべての世界で、現実は少女たちが運んでくるんだよ。で、少年は夢の中にいるんだよ、ほんとに。だから、悪夢のような犯罪というのは少年が犯すわけ、いつもね。で、現実の中でひんしゅくを買うのは少女の方なわけ。だから少女はパンツを売る、少年は自分の生みだした神を信じて、祈りを捧げて子供を殺すっていう構図だと思うのよ。だから少年の捉え方、少女の捉え方が --- それが一般的な正解かどうか分からないけど --- 少なくとも僕が感じてる少年と少女の役割と近いものを感じたから、すごく入っていきやすかったのかもしれない。
Q.でも父親はいない?
A.父親って母子関係に介入する現実なわけじゃない。それはエディプスコンプレックスで、『カナリア』では、それを取っ払ってるからお母さんは永遠なわけですよ。お父さんの代わりにあのお祖父さんが最後に出てきて現実を見せるんだけど、そのためには絶対にお母さんとの間のファンタジックな関係を保障しとかないと、どうしてもまたお父さんの存在と一緒に僕たちがワイドショーで知ってるオウムという物語がそこに入りこんでくると思うの。そこを塩田監督は巧妙に避けたと思う。だからいわゆるマスコミとか、いかにも現実を背負った存在っていうのが、必要最小限しかでてこないでしょ、この物語って。社会的な映画にしようと思ったらもっと出すと思うんだよ、差別の構造とかね、偏見の目の中で生きている元信者たちみたいな。そのへんを、現実に足をすくわれずに、スクリーンの中のもう一つの現実として作り上げたんじゃないかなと思うし。この題材でこのストーリーで人権映画にすることも出来るわけじゃない、この子たちには罪はないのに...って感じのさ。でも、それをやってもしょうがないと僕は思うんだよね。それはほんとにあのオウムという事実を知ってなければ成立しないようなものだから。だから神話的といってもいいぐらいの母子関係を作ったりしてるわけで。この少年は宗教団体というような信じるものに裏切られ、根元的なお母さんという信じるものに裏切られ、で、最後に何を信じるのかっていうところにいくわけでしょ。すごくね、神話的ですよ、抽象的というかね。だからそれを考えるとね、このふたりが"現代の日本が生んだ魂の孤児たち"っていう言い方、当たってると思う。そこに絶対に普遍があると思った。
※これ以降、一部ラストシーンに触れたところがあります。
Q.たまたま、このふたりは特殊な環境だけども普遍性のある存在だと?
A.この映画を1997年とか98年に発表してると、多分現実にあまりにも近すぎたかもしれないし。ほんとに10年経って、という時期はいいんじゃないのかなと思う。「あれから10年」って宣伝コピーは嫌いなんだけど。でも紹介的には必要ですよって感じはする。映画館の椅子に座るときのさ、動機付けとしてね、オウムなりなんなりってのがあっていいと思うし、意地悪に観てやるその動機付けとしてあっていいわけよ。でもね、始まってしまえば忘れると思う。僕が忘れたから大丈夫って感じはする。
Q.特に重松さんが印象に残っているシーンはどこですか?
A.元信者たちと共同生活しているところからふたりがまた出ていくよね。旅立つふたりに、元教育係だった伊沢が延々と語りかけるじゃない。あれすごく良かったんだよね。
Q.「おまえはおまえ自身が何者であるのかをおまえ自身で決めなくちゃならない」というところですね?
A.そうそう。あそこがね、とってもね、難しいんだよ。説教じみてるっていうか、意味が前に出すぎちゃってるっていう批判はあるのかもしれないけども、とりあえずね、これ必要だって思ったの、このメッセージは子供たちに。芸術という面では、ある意味、レアすぎるかなって気もしないでもないんだよね。テーマ言いすぎてないかなと思ったけど、でも僕多分ね、あの神話的なトーンを打ち破ってでも、言葉の力で言いたかったんだろうなっていう感じがしたの、塩田監督が。映像プラス台詞の力で。僕が作家として言葉で表現してる人間だから余計思ったのかもしれないけど。あそこのシーンが僕は好きだった。
あと一番印象的っていったらラストシーンになっちゃうんだけど。歌なんだよね。うん。あの歌いいねえ。あのシーン単独っていうよりもリフレインされる「銀色の道」の歌が、波のように伝えてくる感動だった。『どこまでもいこう』のときには、「地上最大の作戦」だったよね。1970年代の少年たちの心をくすぐるような選曲をしてくるんですよ、塩田監督が。
Q.光一と由希を演じた石田君と谷村さんはいかがでしたか?
A.谷村さん良かったねー、たまらない。関西弁がいいんだよね。そう、関西弁というのが現実的でしょ? 身も蓋もないじゃない。やっぱり少女はね、現実を連れてくるんですよ、少年は夢見がちでさ。
目ヂカラがあるよふたりとも。かなしいぐらいにあるよね。なんでこんなに真っ直ぐ見るんだろうっていうかさ、特にあの少年、石田君の方はさ。
走ることも、そういう象徴で、真っ直ぐ前見なきゃ転んじゃうからね。歩くときはあっちこっち見られるけど、一点を見つめるんだよ、走るときって。そこが美しくもあり悲しくもあるわけですよ、少年って。大人は視野を広く持って右左を見て歩ける。でも、少年は走るからね、前しか見てないんだよ。
でも、最後に歩くでしょ、あいつら、手をつないで。走るときって前傾姿勢だから前のめっちゃうけど、最後は胸を張って歩く。おぉ!いいじゃないと思ったな。
Q.最後に、重松さんはこの作品をどういう方に観客に観てほしい、というのはありますか?
A.繰り返しになるけど、「オウムの子供たち」って限定して観てほしくない。これはまさに現代日本が生んだ魂の孤児だから。うちの息子だって魂の孤児かもしれない、あるいは街歩いてる子たちも実は孤児かもしれない。その面での普遍性があると思ってる。
Q.現代社会の子供たちを写していると?
A.「少年もの」ってさ、観る人や読む人の踏み絵みたいなところがあってね、その人自身が今の子供ってのをどう感じてるかによって入っていけたり入っていけなかったりする。僕は「ナイフ」で、今の"いじめ"っていうものを描いたんだけど、子供たちはみんな仲良くって当たりまえだとしか子供を見てない人は、いじめの手口の方にびびっちゃって、「こんなふうにいじめられるとは知りませんでした」って反応なんだよ。「いや、そこを読んでほしいんじゃなくて」っていうのがあってさ。
オウム事件のあと、いろんな子供がらみの事件を経て、ここに描かれている子供たちのことが、リアルに感じられる視線を僕たちも持ってしまったのかもしれないよね。もう子供は無邪気で元気で明るくてっていうものを信じてる大人はそういないと思うんだ。95年の時点はまだいたかもしれないよね。でも、酒鬼薔薇とか長崎の俊君殺人事件とか、現実が迫ってきた。だからこの映画が、ファンタジーではなくてリアルな映画として観ることができるっていう時代は不幸な時代かもしれない。不幸な時代かもしれないけれども、それも含めてリアルな少年像だと僕は思っている
Q.そう考えると、この時期にできた映画ということに意味があるんでしょうか。
A.作り手自身の年齢っていうのもあると思うんだ。塩田さんが30代の前半とか、つまり10年前にこれを撮ったら、もっと別の映画になったと思うし、10年後に撮ったらもっと別の映画になったと思うし、その面ではねやっぱり少年を描くのは、一期一会みたいなとこってあると思うんだよ。だからその一期一会がね、少なくとも僕にとっては最高にうまくいってるんじゃないかなと思えた。世間の事件の忘れ方と覚え方とか、いろんな狭間で。だからいいタイミングなんじゃないの。
Q.個人的にはすごいいいタイミングだなと思いました。ようやく冷静な目で見つめられる時代にきたなと。
A.マスコミを象徴とする世間の発情が、やっと収まったっていう感じはするよね。でも、単純に子供の映画ですよ。子供というか少年少女の映画として残っていくんじゃないかなと。それが作品の力だと僕は思ってるからね。だからその面では10年後になると、もっと世間がオウムのこと忘れちゃって、もっともっと『カナリア』という作品そのもので観る人が増えるかもしれないし、そこで負けないと思ってる、この映画は。2時間サスペンスの「実録、三億円事件」とかあるじゃない、ああいうのってやっぱりネタの事件が忘れられちゃったらその場で消えていくでしょ。でも、ほんとに残るものって、その事件が忘れられても、むしろその方が作品そのものとして残っていけると思うんだよね。僕はそうであって欲しいとなと思う。
重松清(しげまつ・きよし)
作家。1963年、岡山県生まれ。99年「ナイフ」で坪田譲治文学賞、同年「エイジ」で山本周五郎賞、2001年「ビタミンF」で直木賞を受賞。そのほか「定年ゴジラ」「流星ワゴン」「卒業」など著作多数。
企画/オフィス・シロウズ 製作/オフィス・シロウズ/衛星劇場/バンダイビジュアル
配給/シネカノン *日本映画エンジェル大賞受賞作品
2004年/132分/カラー/1:1.85
(C)2004『カナリア』製作委員会